プリミティブから洗練へ

i-ppoたおか 田岡正臣 経堂 ネコ 東京 陶芸
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概ね、作家(絵画、造形)は、最初プリミティブ(拙い、と言い換えてもいいです。)な雰囲気を有していても、テクニック、技量が上がると、洗練の方向に向かう人が多いですよね。

自分が表現したかったものを、表現できるようになることが、洗練に通じる場合が多いからだと、思っています。

しかし、敢えて、意図的にプリミティブな雰囲気を守る作家もいます。

中には、本人の意図に反して、いつまでたっても技量が上がらず、結果としてスタートした時のイメージをそのまま、残す人もいますが、それがその作家の味になっていたりします。

画家のルソーがその典型でしょうか?

未開の地の人形や、子供の作品は、強烈な魅力がありますが、技量がないぶん、むき出しの感性に溢れています。

作品の味、雰囲気を作るためには技量やテクニックを上げるだけではダメでだと思います。そこが作品創りの難しいところであり、面白いところでもあるのでしょう。

圧倒的な技量、テクニックを持ち、なおかつ、自分の表現したいところだけに、その技量を使えるようになると、魅力的な作品ができる素地ができるのではないでしょうか。

職人の世界では、圧倒的に技量(場合によっては100%)が一番に来ると思いますが、芸術作品ではそうではない。

個人的な思いとしては、陶芸(器)などでは、技量7、表現が3と思いますが、陶芸の世界でも、これが逆転する場合もあるのでは。

絵画や一般的な造形、彫塑などは、ある意味表現がすべてであり、自分が表現したいことに、技量がどれだけ追いついているかだと思います。

たまたま、とても素晴らしい素地(才能)があり、スタート時点は圧倒的な魅力があったのに、基礎的なテクニックを身につけたがために、それなりに上手になり、すっかり凡庸な作品しか作れなくなった、というなら、なんとも皮肉で、残酷なものですね。

 

(長年、インスタで作品を発表している人で、ドンドン達者になっているのに、最初の頃の作品の方が魅力的だったな、と思える人、結構います。お前はどうなんだ、と言われそうですが、自分のこととなると、さっぱりわかりません。)